虎造の源流 虎造に影響を与えた 6人の名人芸

初代木村重松 慶安太平記 怪僧善逹道中附 M-1(15:28)

虎造が小学生の頃、友人宅の蓄音機で聴いて浪曲に興味をもった演目。虎造が弟子入りを志願した事もある関東節の大看板。

初代 木村重松とは・・・

浪曲中興の祖、桃中軒雲右衛門の一番弟子が、関東節名人といわれた初代木村重松(のちの二代重勝)です。浪曲界でも雲右衛門は個性的な存在といわれたが、重松はそれを上回っていた。雲右衛門がまだ吉川繁吉と名乗り、旅回りを続けていた無名時代に、重松は弟子入りをする。 重松は明治10年。神田で芝居の衣裳方をしていた家に生まれ、名を平木(荻村)勘太郎。 子供の頃から自由奔放で、仕方なく8歳で丁稚奉公に出される。しかし、一年で18カ所も勤め先を変え、さすがの母親も匙を投げた。 18カ所目の石屋に勤めていたある日、神楽坂にあった若松亭に出演中の雲右衛門に弟子入りを志願。 楽屋に血相を変え飛び込んできた勘太郎が、とにかく弟子にしてもらえるまで帰らないという。仕方なく雲右衛門は「何か一節やってみろ」というと、浪花節は一度も聴いたことがないという。 驚いた雲右衛門が「では、なんで弟子にしてくれという?』と聞くと、「はい、楽屋口であなたの紋付袴姿を見て、俺も一度でいいからあんな立派な姿で風を切って歩いてみてえと、思いまして・・・」この言葉に雲右衛門は二度びっくり。 しかし、そのとぼけた小気味よい話し方と声のよさに雲右衛門は入門を許したといわれている。

その後、勘太郎は以前とは人が変わったように芸道に励み、それに雲右衛門も惜しみない指導をした。その雲右衛門が勘太郎を残したまま三河家梅車の妻お浜と不倫の恋の逃避行をしたのが、明治31年。 残された勘太郎は勘当された家には戻れず、仕方なく通りに出て立ん坊をすることになった。 そして、その姿を見かねた浪花家玉造が師匠浪花亭重勝に紹介し、勘太郎は浪花亭の門人となった。その後も芸人同士の喧嘩や、辛い旅回りと様々な出来事を経てようやく真打となった。

この当時はお客も容赦なく、芸の批評をしたようで、まずい浪花節にはヤジが飛んだ。とくに漁場など威勢のいいお客からは「オケ」「オケ」と声が飛び、ひどい時には勝手に幕を閉めたお客もいた。 そうした厳しいお客もいい浪花節にはうつむき加減にじっと聴き入り、節の合間に小声で「名人!」といった。

真打になってしばらく、重松は雲右衛門と再会する。 重松は今までの経緯を話し、どうして自分を捨てたのか?と、雲右衛門に詰め寄った。 雲右衛門はお浜との一件と、芸人として出世するために足手まといとなることをあからさまに話し、重松に詫びたそうです。 重松もその雲右衛門の言葉に感激し和解した。 それからは雲右衛門が出演して、重松の寄席がガラガラになってしまった時、楽屋に莫大な祝儀を届け、大勢の身内を連れて重松を聴きにいったと記録されている。

重松の師匠重勝が二代浪花亭駒吉と興行の件で争いとなり、浪花亭の姓を返上し、木村重勝を名乗り独立した。この時、関東で一番の稼ぎ手となってた重松は師匠重勝に代わり、弟子全員をまとめて面倒をみたと記述にある。 重松の芸は雲右衛門とは違い豪快ではないが、何とも言えない味がある節で、啖呵はべらんめい口調で侍も、殿様も、ヤクザ者も同じ調子でやりながらも写実的で、非常に愉快な浪花節である。 弟子をとる時には必ず、「お神楽はできるか?」「喧嘩は好きか?」と聞いて、その条件に叶った者だけを入門させたといわれる。 親分肌で後輩の面倒をよくみたが、失敗したら必ず証文を入れさせるクセがあった。 弟子がつまみ食いしていたのを見つけては詫証文、白髪を抜かせていて黒い髪を抜いたからと詫証文。 飼っていた猫が座布団の上で粗相をして、代わりに弟子に詫証文を書かせた。 そんな証文がタンスの中に山ほどあったというから面白い。

昭和に入り重松は関東浪曲睦会を設立し、その傘下には「壺坂霊験記」で一世風靡した浪花亭綾太郎、二代広沢虎造、「天保水滸伝」の二代玉川勝太郎、広沢瓢右衛門などをがあり、関東では絶大な権力を握る。その重松に少年時代憧れて、弟子入りの夢破れ、大阪で修行したのが広沢虎造だ。 あの有名な次郎長伝の「馬鹿は死ななきゃ治らない」というアテ節は重松節そのものである。